特別インタビュー:杉山英照

話スヒト:すぎさん=す

聞クヒト:くみこ=く

 

【幼少期】

くみ:子供の時はどういう感じだったのでしょうか。

すぎ:どういう感じだったかと言うとですね。幼稚園の時とかはあんまし記憶がうる覚え何ですけど。何かね、必死だったと思います。何かと。

くみ:必死だった。

すぎ:うん、必死だったと思います。何か今にも繋がってくるんですけど。「出来る人」「出来ないグループ」みたいな。分けられるのがあんまし好きじゃなくて、居心地が良くなくて。何か、例えば出来ない方に入れられた時に、イライラするまではいかないけど、たぎるものをすごく感じていた記憶がありますね。

くみ:それを幼少期の時に感じていたんですね。

すぎ:感じてましたね。今でも覚えてますもの。

くみ:何かエピソードとかありますか。

すぎ:そこの幼稚園って、いろいろ外に出て学びがある幼稚園だったんですよ。スイミングスクールを借りて授業するとかあって。全然出来なくて。なんか「出来る子こっち、出来ない子こっち、さらに出来ない子」みたいにあって。さらに出来ない子のとこに   一人だけ座っていた記憶があるんですよ。

くみ:そうなんですね。

すぎ:その時に、何でできない子にさせられたんだろうっていうのがあったりとか。劇をやる時に目立つ人は役を与えられたり、目立たないとセリフが少なかったり、ただいるだけとかの扱いを受けたりすると、当時からザワザワザワザワって結構あった記憶がありますね。その何か、劇とプールの時の記憶は結構あるんですよね。

だから、何かを埋めようとしてそれくらいの時から、なんか習い事がしたい子みたいな。年中で体操教室、年長で書道を始めて。そこの保育園に外部講師が授業後に来てくれてやってたんですよ。それがやりたいみたいな。

くみ:それは体操も続けて、書道も新しく始めたんですか。

すぎ:そう、書道も新しく始めて。別で水泳も行ってたんですよ。水泳行ってたのも、自分は出来ないっていうレッテルを貼られたのがすごい嫌で。何か、不足を埋めるみたいな。何かチャレンジしたいみたいな。

くみ:チャレンジしてみたい。

すぎ:って言うような人だった気がします。記憶が確かなら(笑)

【国体の聖火リレー】

すぎ:国体って年に1回どこかで行われているじゃないですか。小6が(地元の)愛知県だったんですよ。その前年のマラソン大会で足が速かったやつ上位4人を選ぶってなったんですよ。

くみ:学校で。足が速い人上位4人。

すぎ:学年で。クラスでとりあえず2人くらいだそうってことになったんですよ。その時に、僕の名前を忘れられていて。前年って誰が速かったってなった時に「○○君と××君が速かった気がします」「あーそうだったけな、そーだったけな」みたいな感じに   なったんですよ。「いや、ちょっと待てよ」と。「俺速かったやん」って。(笑)その○○君って休んでたんですよ、インフルエンザか何かで。いや、○○君いなかったから俺やんって思ったんですけど。なんか、それがすごい嫌で。身体能力が高いから選ばれちゃうような子だったんですよ。それがすごい悔しくて。だんだん腹が立ってきて。

くみ:何でだみたいな。

すぎ:そう、何でなんだろう。何であいつなんだろうって思いが。いつも何で何だろうって。当時、先生に何でもコミュニケーションノートみたいなのがあったんすよ。大体3行くらいでいつも終わるんですけど、2ページくらいグワーッと書いて。

   「何で○○君は休んでいたのにいつもああやって選ばれて。何で、俺はこうやって頑張って入賞もしたのに何で選ばれなくて。おかしくないですか」って。

そうしたら、次の日に先生が皆に聞いて。「そういえば、○○って去年マラソン大会おったけ?そう言えばインフルエンザで休んどったね。だったらじゃあ、××とすぎさんが速かったね」ってなって。一応、選ばれたんですよ。

くみ:すごい。

すぎ:そこからが結構大変で。土曜日も午後からは小学校中学校が集まって、練習するっていうのがあって結構走るんですよ。走って準備して整列とかも。国体なんで、ダラっと出来ないんですよ。なので結構がっちりやって。先生もすごい厳しいんですよ。で   も、そういうのも乗り切って当日を迎えて、沿道にめっちゃ人がいるんですよ。本当にすごくて。めっちゃおるんですよ。皆見に来るんですよ。

   あんまり承認もされてこなかったし、選ばれないような側の人間だってずっと思っていたからめっちゃくちゃ嬉しかったんですよ。終わったら終わったで、家族もすごい喜んでるし、死んだおばあちゃんも喜んでいて。初めて大きいことやった達成感が半端   なくて、だからすごい嬉しかったんですよ。自分で勝ち取ったっていう、交渉までして(笑)泣いとったもんなぁ、あれ書いた時(笑)

くみ:国体の聖火リレーに選ばれたこと自体よりも、選ばれて練習をやり切って実際に走った時に皆に認められたっていうのが大きいんですか。

すぎ:めちゃくちゃでかかったですね。今でも風景を思い出しますもん。すごい覚えている、あれは。緊張しすぎて横っ腹痛かったんですけど(笑)でもすごい嬉しかったですね、あれは。

【中学のソフトテニス部】

すぎ:部活がテニス部だったんですけど。

くみ:テニス部なんですね。

すぎ:ソフトテニスなんですよ。その先生が、結構ひいきが強くて。まぁ良い言い方すると実力主義なんです。その先生のやり方が1軍2軍と分けるんですよ。それがね、AチームBチームに分けるんですけど。もう、扱いがすごいんですよ、全然違うんです   よ。

くみ:AチームとBチームで。

すぎ:全然違う。Bチームが1軍なんですけど待遇が全然違って。Bチームは1年からコートの中に入れるんですよ。それがすっごい屈辱なんですよ。何が屈辱って、1年に1回か2回、親が部活を見に来る機会があるんですよ。Aチームになると完全に裏方な   んですよ。

くみ:親が来た日まで。

すぎ:そうなんです。完全に球拾いなんです。3年のAチームも球拾いなんです。

くみ:3年生もですか。

すぎ:そうなんですよ。明らかに僕より下手な人がBチームにいるんですよ。だけど最初に先生の決め方が、「野球をやっていた人、野球をやっていなかった人」って分け方をしたんです。球も打てるし、球も追えるし、走れるし。僕、野球を小学校の時にやり   たくて仕方なかったんですよ。親が「お前はダメだ」と。

くみ:お前はダメだ?

すぎ:うん。身長が低いからダメだとか。お前には無理だと。憧れだけでやれると思うなよって言われまくって。心をバキバキに折られて、僕野球をやれなかったんですよ。

それがあって、中学の最初A、Bを決める時に「野球やってる=B(1軍)」「野球やってない=A(2軍)」って。本当に先生が3年間(Bチームは)こいつらで行くって決めて。ダブルスで4組か5組くらいで、最後の1組だけちょっと(レギュラーの)入れ替えがあったりするけど。Aのトップの僕とかが明らかに強くても、その子(Bの最後)が気に入られていたらずっと(その子が)Bなんですよ。

くみ:先生の匙加減なんですね。

すぎ:匙加減で決まるんですよ。僕、結構頑張って筋トレとかやって、いろいろやったりとかしても、先生の目に留まらなかったりとか、圧倒的な何かがないと(Bに)代われなくて。屈辱的な話に戻ると、親が見に来ている時も球拾いだったり、他の部活の子   達からも分かるわけですよ。すごいきついんですよね。

くみ:そうですね。それは結構きついですね。

すぎ:きついんですよ。で、コートが2面あるんです。3年のBチームが練習するコートと、2年のBチームが練習するコートがあるんです。その(2年の)相手を3年生のAチームがやるんですよ。その時に「なんで2年とやってるの」って結構言われるん   ですよ。他の部活とかから。それがめちゃくちゃ腹が立って。屈辱的な日々をずっと送っていくんですよ。で、日曜日はレギュラーが試合に行くんですよ、先生の車で行   くんですけど。Aチームはそんなことも告げられず休みなんですよ。

くみ:えっそうなんですか。試合の見学とかは。

すぎ:全然ないです。近場ならありますけど。

くみ:Bチームが試合に行っている間、Aチームは自主練とかではなくて。もうお休みなんですか。

すぎ:もういない者みたいな感じで、休みなんですよ。腹が立って。でも先生的には育成と球拾いの役割っていう感じだったんですよね。

まぁ、最後の大会が終わってやっと報われる時が来るんですよ。やっっと報われる時が来るんですよ。最後卒業式の時に先生が僕らの前に来て言うんですよ。レギュラーを差し置いて。

「お前たちがいたから、来年の奴らがめちゃくちゃ生き生きしてるんだよね」っていうことを言ってくれたんですよ。これ何でかっていうと、大体どの年代のAチームも来なくなっちゃうの、途中で腐って。僕たちの代は真面目に行っていて真面目に練習相手とかやってあげていたせいか、次の年の学年が5チーム中5チームが東海大会に出て、2チームが全国大会に出たんですよ。先生が「ありがとな」って言って、翌年に結果が出るじゃないですか。

   もうその時に初めてね、次の年に後輩達が新聞に載っているのを見て「自分がやってきたことは間違いじゃなかったんだな」って。初めて、裏方であることに対して。今でも鍼灸師って裏方じゃないですか。だからそんな抵抗はないんですよ、捉え方次第   で。

   でも、むっちゃきつかったのは、本当にAチームの扱いはむっちゃきつかったですね (笑)本当に辛かったですもん。涙流しまくってましたもん。なんであんな思いしないといけないんだろうとか。でも真面目にやってきたから、今でもたまに先輩とか後輩とか同級生とか、患者さんで来てくれるんですよ。

くみ:今もその繋がりが続いていて。

すぎ:そうなんですよ。で、その先輩、後輩、同級生ってBチームなんですよ。(笑)僕が、もしかしたら解釈の問題で「自分がダメな奴だ」とか思っていたから劣等感を抱いていただけかも知れないですけど。多分先輩とか後輩からしたら、1人の大切なメ   ンバーって思ってくれていたのかなって、大人になってから思いますね。

 

【鍼灸師を目指す】

すぎ:大学3年の時に怪我をしたんですよ、部活で。

くみ:ラクビーで。

すぎ:いやアメフトです(笑)怪我して、そっから部活が出来なくなっちゃったんで、次に何しようと思った時に公務員試験を目指したんですよ。当時就職氷河期だったんで、安泰だろうと思って。でも特に目的なく、公務員って安定してるからって感じで。で   も首怪我してるんで、この辺(顔~首)がガチガチに痛いんですよ、毎日。その時に施術受ける機会があって、(大学)3年の時ですね。施術を受けて衝撃を受けたんですけど、これ本当に衝撃で。カイロの施術だったんですけど。

くみ:カイロなんですね。鍼灸ではなくて。

すぎ:鍼灸じゃないんですよ。パッと受けたら、「うっそ~っ!」と思って。「え~っ、お医者さんでも治らんて言っとったよ~」とかって。こうなった時に、僕の中でパラダイムシフトがパァンと起こるんですよ。怪我をしたことを僕は結構言い訳に使ってた   んですよ。怪我をしているから一般企業に就職できないかも知れないとか、怪我をしているから何とか、怪我をしてるから何とかって。

でも、その時に「怪我をしているからこそやれる仕事をしよう」と思って、マッサージの仕事をすぐに始めたんです。

くみ:大学生の時にですか。

すぎ:そう、リラクゼーションの仕事を始めたんですよ。公務員試験の何万もする参考書を全部売って。だめだったら辞めようと思ってリラクゼーションのバイトやってみたら、「お兄ちゃん頑張ってやってくれてうれしいわ」って言われて、こんな良い仕事   ないって思って。就職活動はせずに、専門学校の試験を受けて、すぐに入学したんです。大学4年の後。

くみ:衝撃を受けたのはカイロだったんですよね。それで、どこから鍼灸にっていうのは。

すぎ:実は、カイロを受ける前年に捻挫で鍼灸治療を受けてるんですよ。大学2年の時です。捻挫も結構ひどくて整形外科でギプスをぐる巻きにされたんですけど。それ終わったら歩けなくなっちゃって。足の筋力が落ちすぎて。それが不思議と鍼をやった   らパッと歩けたんですよ。

その成功体験もあって、すぐに図書館で調べたんですよ。そしてらやり方次第で年収1000万って。安定もするって。だったら公務員やらんでもええやんって思って。鍼灸師になるって思って、鍼灸師にしました。

 

【腎臓病~ターニングポイント~】

すぎ:大学3年からマッサージの仕事始めて、大学4年生になる春の時期ですかね。1月に足が突然腫れたんですよ、ぶわぁーっと。ネフローゼ症候群っていう子供がなる病気があるんですけど、大人になってなったんですよ、原因が不明で。顔もパンパンにな   るんですよ。何でかって尿が出ないんですよ、腎臓が機能しないから。パンパンになるんですよ、あらゆるところが。

くみ:ある日突然っていう感じですか。

すぎ:今振り返ると突然なんですけど、前兆としてめっちゃ眠いんですよ、毎日。とにかく眠い。春休み差し掛かったくらいの時に足がパンパンに腫れて、おかしいって思って3日目くらいに吐いたんですよ。そこでわかったのが、日赤(病院)に運ばれて「ネ   フローゼ症候群」だったんですよ。治るのに2か月、日赤に入院して。

くみ:そうなんですね、2か月入院して。

すぎ:そう。で、何がターニングポイントかって言うと、「健康でいることって当たり前じゃないな」って思って。突然、あんな風になるし、外には出してもらえないし、隣で(相部屋の)おじいちゃん死んでいくし。こんな小さい子なのに入院しているのと   か。

僕は治るっていうのが分かっていたから良かったんですけど。治らないってもう言われているおじさんとかもいて。日記もすごいつけたんですけど、気づいたこととか。色んなものを見ていくんですよ。生まれる瞬間も見たりとか。2か月もいたら生きるから死ぬまで全部見るんですよ。そして自分が腎臓が良くないと。そうなった時に、当たり前って何一つもないなって。それは結構なターニングポイントでしたよ。

くみ:この入院の前の時点で、鍼灸師になるって決めていたんですよね。

すぎ:決めてましたね。(病院の)掃除のおばちゃんとかに「俺、鍼灸師になるわ。やりたいことやって死んでいきたい」って話してましたもん。(笑)

 

【今後~雇用など~】

すぎ:会社に入って7年目が始まるくらいの時。(その前)3年間くらい、キックボクシングの選手のトレーナーをしていたのが、僕にとって会社にいる意義だったんですよ。その子たちが東京のジムに移籍が決まって。そうなった時に、目的がないわけですよ、会社に残っている。そんな空っぽになった状態で、今の妻と結婚することが決まって。妻が「やりたいことをやっていない姿を見てられない。」って言って。加えて、給料もずっと上がらなくて。(会社に)いる意味ないねって話になって。

   家族養えないのと、鍼が打てないっていうのを言って(会社を)辞めました。目的がなかったですね、そこにいる。だから辞めた。自分でも鍼治療がやりたかったし、周りがどんどん独立していって。

くみ:会社を辞めてからすぐに独立したんですか。

すぎ:結果的にはすぐ独立したんですけど。

   いきなりぶっつけ本番で鍼はやだなって思って。数年働いてから独立しようかなって思たんですけど、また何年も辞められなかったらどうしようって。だったらもう、人生懸けてやってみようって。すぐ開業しましたね。

くみ:今は開業して何年くらいですか。

すぎ:8年目ですね。

くみ:8年なんですね。もともと一人でやりたかった、人と働きたくなかったので開業されて、来年の春に雇用を始めるという。この心境の変化を聞いても良いですか。

すぎ:コロナになってから数年で、学びがすごい深いわけですよ。その中で僕は今、アチーブメントっていうのを学んでいて。その中のワークで、いろんな人と話していた時に「僕にとっての一番の不安は今の現状から抜け出すことです」って答えがパッと出て   きたんです。要は、一人でやっていて、一人の世界から抜け出すことが自分にとって不安だということが分かった。

でも、ぴょんと抜け出して、何か前進しないと成長しないなって思ったんで。今の現状が不安なのであれば、そこを突破して自分はさらに成長しようと思ったんですよ。その時に、自分は何を望んでいるのかなって考えて。

かつて自信を折られてきて、なおかつ自己肯定感が低いまま鍼灸師になって、鍼が打てない環境でくすぶっていた自分がいた。だったら第二の自分を出さないように、「自信を持って自分の人生を生きれて、鍼灸が出来る」って環境を、僕が作ってあげたいなって思って。まず一人目から雇おうって、自分のチャレンジも兼ねて。それで決断したって感じです。

くみ:雇用を控えて今の心境としてはどうですか。

すぎ:ちょっと不安ですね(笑)でも不安はあるけど、決断したことなので。自分は出来てないとか、出来ないとか、そういうことをすぐに考える癖があったんですけど。実はいろんな人と接していくと、そんなことなくて。結構自分には人には無い要素があっ   たりとか、それなりの魅力があるんだなって気づき始めているんで。もともと無いものをねだるんじゃなく、あるものを大切にしていけばいいなって思うので。不安半分、楽しみ半分ですよね。

くみ:最後に聞いていいですか。最近スタンドFMを始めたと思いますが、それについてきっかけとか。

すぎ:結論からいうと、話すことが好きなんだなって言うのに気づいたんですよ。アチーブメントの最後の過程が人にプレゼンをするって言う工程なんですよ。その講座に行くまで、僕って話をすることがすごい苦手だったんですよ。

社会人時代ってすごい否定をされるんですよ。承認されないんですよ。だから原稿に全部書いて読んで人に伝えていたんですよ。僕はそんなこと出来ない人間だって。自分で思っていたし、設定していたし、周りもそういう評価だったんで。自分は出来ない人間なんだって思っていたんですよ。

それが一転、自分の中に快適感情があった、伝えることに対して。原稿なしで話せるようになった時に、自分の中でこれ好きだって思ったんですよ。でも、場数が必要なわけですよ、話すには。だからスタンドFMやっているんですけど。

「あっ、この感じ、俺が求めていたやつだって。」って言うのが。部活で疲れてボロボロに泣きながら、布団の中で聞いていたあのラジオみたいに自分が喋れているのが、すごく嬉しいから続けていますね。

くみ:もともとラジオを聞くのが好きで?

すぎ:めっちゃ好きでしたね。

くみ:何かこれから発信していきたいこととかあるんですか。

すぎ:人はいつからでもどこからでも変われるって言うことを発信していきたいと思います。これが軸です。

くみ:自分の経験から得たものを。

すぎ:そうそう。僕は足りないものを補う、自分は出来てないっていう人生だったんですけど。そうじゃなくて、自分には自分にしかないものがある。あなたもそうですよって言うこととかを伝えていければって思う。あなたも素敵なものを持っていますよと。