特別インタビュー:米倉まな
話スヒト:米倉まな=ま
聞クヒト:加藤久仁明=く
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まな:三重県の方ではりきゅう処ここちめいどをやっています。後、オンラインサロンここちめいどという鍼灸師の団体をやっているという状況で、私自身がうつ、パニック障害、双極性障害の当事者だった経験を活かして色々と発信したりみんなといろんなプロジェクトをやっています。よろしくお願いします。
くに:はい、よろしくお願いします。では、まなさんは子供の頃はどんな子どもでしたか?
まな:私、姉がいるのですけれども、割とおとなしくしているタイプ。人見知りも凄くて、家族以外には全然しゃべらないみたいな。
くに:そうだったんですね。
まな:姉自身もお転婆な感じだったので、姉がやって怒られているのをみて、私はあれをやらないでおこうというしたたかな一面もあった。今でも人が怒っているのを見た時にいたたまれなくなる。こんなに優しい親を怒らせてしまった、悲しませてしまったのは、理由はわからないけれど、きっと私のせいだから、それをさせたくないなとかはありました。
「小学生時代」
くに:小学生時代にかけてもそうだったのですか?
まな:きっと今もそうだったのかもしれないし、前よりは他者と自分との分離ができてきましたけれど。それができるまではしんどかっただろうなと思いましすね。
くに:幼稚園、小学校の頃のことで何か印象に残っていることはありますか?
まな:5年生まで地元の万古焼っていう焼き物をしている地域で万古祭りというのもあるんですけれど、その中で毎年学校の図工の時間に万古焼を作るというのがあって、学校行事として当たり前のことと思ってました。
6年生の時に転校した先の学校には窯が無くて、自分はなんて狭い世界で生きてきたんだろうと感じることがありました。
ただ、お月見泥棒という行事は、小学校1~5年生の所でも、小学校6年生の所でもあったから、この行事はみんなやっているんて思ってしまってました。
<”怒らせない”事を目指した幼少期>
まな:怒らせたくないっていうのがすごく多かったので、それは親に対してとか周りの人に対して怒らせたくないなというのがあったと思うのですね。
だから怒らせないためにはどうしたらいいのかというと、優等生になっていくという方向を目指したんだと思う。
怒るって本人も疲れるだろうし、それに自分が係ってしまったという罪悪感は大きかったと思うのですね。
「中学時代」
まな:中学生の時は、アニメは小学生から見ていたけれど中学生でオタクになりましたね。
そのときに私がよくTwitterでやってる「爆走兄弟レッツ⚫️ゴー」というアニメがやっててはまりました。
当時は名古屋しかほとんどイベントが無くて、中学高校とかだと名古屋もやっぱり遠くて、でも週に一回は名古屋に行っててホントに楽しかった。
好きすぎて皆が四日市にくればいいのにと思って、同人誌即売会イベントをやりましたね。
くに:自分で楽しいところの起点を作っちゃうというのはそのころからなんですね。
まな:今思えばそのころからやっていたんだなみたいな。自分が技術を取りに行くというよりは技術を持っている人をかけ合わせることが好きで、当時からみんなに仲良くなってもらうにはどうしたらいいかなと考えて活動してました。
反面、中学校では不登校もしてて、親も心配はしてたと思うのですけれど、イベントに係るとか派手なことは出来るのに学校に行くことができないていう面があって、でもうちの親については学校に行けないときは凄く心配したと思うのですけれど、でも元気なときにそういうことする分には「まあ元気だからいいわ」みたいな。
家と学校とオタクのイベントと3つ居場所があったので、学校が嫌なときに無理やり行かずに済みました。そしてクラスが変わったらいけるようになりました。
「高校時代」
高校は中学のときと人の特性が違っていて、学力レベルで揃えられると、地域で繋がっていた人とは空気感が変わるんだなと思っていて、クラスの中でもホント仲良くしているのはごく一部で、部活に入っていたので部活の子たちの方が仲がよかったし、ていう高校時代でした。
「高校卒業後」
まな:卒業後は、本当は専門学校に入りたかったんだけれど、一身上の理由で演劇ができる伊勢戦⚫︎時代村っていうところに就職しました。
当時の私には結構ハードで結局1年半くらいで体調壊してしまって、当時日本舞踊とか殺陣とかそういうのは習得させてもらったのだけれど舞台としては場活を踏めなかったかなというのもあって、申し訳なかったというのもあった。
その後は多分7回くらいは仕事を変えてると思う。その間にうつになったり、パニック障害になったり、双極性障害の診断を受けたりして。私自身は仕事を変えること自体はキャリアアップ位に思っていたんですよね。
結構ハードな仕事でタイムカード16時間という会社もあったし、帰って寝ようとしたらスタッフが出てなくなって1時間でまた戻るみたいな、
それもそういう会社にいくことで自分は頑張ってやって、体調壊したら辞めて、次のところは9時〜17時で働くみたいな。
その仕事も自分が興味がある仕事にして、キャリアアップを積んでいるつもりだったので、まさか双極性障害の診断名になるとは思わなかった。
くに:今はどう思われてるんですか?
まな:今もキャリアアップだと思っているんだどね(笑)やっぱり鍼灸師の仕事する上で現場を知らないとわからないことも沢山あるので、どういうところが大変だとかはやっぱ現場でしか知れないし、20代で何回も転職をしているので就職する時の不安とかもわかるつもりですし、そういう意味では職を転々としたというのはあまりネガティブに思っていないんですよ。
くに:実際にその経験が鍼灸師になって活かされると思うのですけれど実感としてはどうなんですか?
まな:鍼灸師だからいろんな方が鍼灸院に訪れるので、この人は会社の中の総務、人事、営業とかそれぞれにいて、どんなことをしているかはもちろん会社ごとに違うけれども、こういうことが予想されるなと当たりが付けられるので。
私が一番好きだったのはゲームセンターの仕事で大変だったけれど楽しかった。
怒るとか自由にしていた。その運営とかが今の鍼灸院の運営に活かされていて、週末のイベントが終わったら次のイベントが始まるとか、スタッフが調子が悪かったらその子に合わせてどうしようかと考えたり、その頃の経験は今も行かされているなと思う。
くに:ホントに今だと怒っているまなさんを見たことがないので、そうだったんだなと。
まな:当時の店長とかに会うと「ヨネはあの時いっつも怒ってたからな」ていうのは言われる。
その店長は尊敬していて、今でも凄いと思っています。スタッフが準備をせずに帰ってしまって「あの子帰っちゃってどうするんですか?!イベントが絶対失敗します!」と店長に訴えた時、「失敗させるっていうのも大事なんだよ。
行動によってどうなるかを体験させるってことを俺は大切にしている」って言われたとき「なんでよ!お客様に迷惑かかるじゃん!」と思っていたけれど今ならよくわかる。確かにそうだなと。今も私の責任の範囲は失敗できる場所でありたいなと。
くに:まなさんは糧となる失敗を出来る場所でありたいと、ここちめいどについて仰っていますが、そういうところに原点があったんですね。
「鍼灸師になるきっかけ」
まな:高校卒業する時に演劇するか、整体にお世話になっていたのでそれをするか考えました。
演劇は若いうちがいいだろう、と思っていました。25歳で演劇を諦めて帰ってきて、一回結婚して離婚をした。
そのとき自分は結婚するのが当たり前と思っていたので結婚をしたのだけれど、私には向いていないと思った。
当時の自分の覚悟が足りなかったと思っています。結婚して半年で離婚届を出して、これから自由なんだと思ったらやっぱり好きなことやろうと思った。
それまでうつもあったし、働けてない間の傷病手当金も頂いていてある程度お金が溜まっていて、昔やりたかった整体が民間資格と知って、どうせ取るなら国家資格がいいなと思ったから、柔道整復師か、鍼灸か迷いました。
鍼灸で精神疾患が良くなって断薬できた経験もあったけれど、じゃ鍼というわけでは無くて、一端柔道整復師も考えもしたんだけれど、やっぱり握力も体力もそんなにあるわけではないから鍼でいこうと思って鍼灸の専門学校に進学したんです。
「専門学校時代」
まな:当時の私は現役の子たちと10年違ってて、うちのクラスは現役の子が半分と社会人が半分くらいだった。
現役の子たちが本当に煩くて、1年の時は「勉強する気がないなら出ていけ!」って怒ってました。
今でも仲がいい同期に、1年生の時はヨネさんに嫌われていたと思っていましたって。本当に煩かったからねって(笑)でも2年生のころから仲良くなっていきました。
みんなで何かやったり、旅行に行ったり。3年生の時は大分楽しくなって、あるとき誰かが国家試験の合格率100%だったら、担任の先生に何してくれる―?って聞いて、そしたら焼肉奢ってやるわという話になって、俺ら頑張るってことになって、クラスの合格率100%にした。
くに:おー、すごい!
まな:ちゃんとみんな国試を受けて受かった。
バディ制度作って成績上位者とペア作って教えるって形が自然と出来て、騒いでいた子も1対1だと、相手に迷惑がかかるという責任感が出来てきて、そういう風になってきたのかな。
くに:多分まなさんが中心になっていたのかな?そしてみんなを変化させていくというのを存分に発揮していたんだなと思います。
「鍼灸師になって」
まな:最初に就職したのがクリニックで、ホントは3年務めようと思っていたけれど、私が得たいものはここではないと思って1年で辞めました。
仲良くしていた患者さんと別れを重ねていくのは辛いなと思ったので、次はもう開業しようと思って、開業したのが32歳の時。2016年に決めた2017年の目標があって、その1つがお医者さんと仲良くなる事。
その年の1月の末に統合医療セミナーで鍼はいいものだと仰っているお医者さんがいて、この先生とお近づきになりたいなと思った。
講演の後でエレベーターでたまたま一緒になって「私はうつだったけれど鍼受けて改善したので、鍼灸師になりました。
興味深くお伺いしてました」と伝えると、「そうなんだ。今後5月にセミナーがやるから君しゃべりなさい」と言われて「わかりました」と。
「元精神疾患患者の公開」
2017年から人前でしゃべらせて頂くことが出てきて、2018年にSQ-salonという12人の寺子屋のテストケースで声をかけてもらい参加して色々刺激を頂きました。
”精神疾患を診てる鍼灸師”になっていった事でよく貰う質問は「うつに効くツボはどこですか?」というのが多くて。そういう質問に答えることが、難しい。
そういうことじゃないと思っているんですね。うつで何が苦しいのか、何を受け入れられないのかそこを私は聞いて、うつ病に付随する症状を施術をするから、うつに効くツボという一撃の魔法はない。
なので、それを聞かれ続けることがしんどくなっていきました。こうやってセミナーに登壇して、精神疾患にかかったことを公開して、鍼灸が効果的と言ったとしても、結局何も伝わらないんだな思ってセミナーは辞めようと思いました。
友人にそう話してたのが2019年12月。そしたら3か月後から新型コロナ禍が始まりました。
色んな方と相談した結果、オンラインサロンという形がいいのではないかということになったんです。
2019年7月にセミナーがした時にくにさんが来てて「メンターがいないから、メンタル疾患を見る時に怖さがある」という話をしてて、じゃあ継続的なお付き合い出来るような仕組だったりとか、学び続ける場作りだったらオンラインサロンという形がいいんだとも思っていました。
何人みれるかと聞かれた時、以前いたオンラインサロンで親方をやったときに難しさを知っていたので6人くらいと答えたけれど、結局2020年1月に女子を募集したけれど、1週間後くらいには10日後くらいには男性1期生、7月に2期生、次の年の4月に3期生、その半年後に4期生、今となっては30人くらいの大所帯になってきています(※2022年8月当時。2023年5月現在40名)。
最初は傾聴トレーニングをする場、みんなと色んな事を勉強する場を作るイメージだったけど、傾聴トレーニングをする中で「あなたはそう思うんだね」「私はこう思うよ」という距離感の中でいろんなプロジェクトをやっていく形に結果としてなれたので、最初は予想していなかったけれど、自分にとっては成功と思っています。
2期生のともよさんが個別ミーティングの時に「まなさん、私たちも頼ってください」と言ってくれて、それまで私はそれはやってはいけないと思っていたけれど、そうすることでメンバーが成功体験を積むことができるとも考えたました。
やりたいことにチャレンジできる場であり、いつでも帰ってこれる場でありたいと考えています。
米倉まな
はりきゅう処ここちめいど
三重県四日市市浜一色町5-1
月,火,金,土
13:00-22:00
080-5112-8900